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  堀田温泉

 

 

 

● 歴 史

一名、堀田湯、大字南立石(元立石村)字堀田五九三にあった浴場。創始は古く、江戸時代初期、萩原氏支配下の宝永二年(一七〇五)代官加藤主馬長治が萩原三位員従の命により開いたと伝えられている。 そのころは、立石村溜池の北西部に温泉が湧き出で付近に浴場があったと言われている。それは、元禄頃とみられている古図の地番二八・二九・三〇・三一・三二の間に空地と記されている場所があることや、明治三十一年(一八九八)絵図に「旧温泉」と記されたことら、ここが旧浴場だったと推測されるが、その真相についてはさらに究明さるべき課題であろう。 江戸時代は、この温泉場を中心として堀田温泉場が形造られ浴場も整備されていたので廣瀬淡窓なども立ち寄った。 また、江戸時代末とみられる「立石村手扣」(古屋勝馬氏蔵)には、○堀田湯ハひセんかさすへててき物に相応仕候、(中略)○ほりた、くわんかいじハ、春秋、別府浜脇辺入湯人と満りなとニ少々宛入湯人参り申侯。と温泉の効用や春秋のころ湯治客があったことが記されている。 明治初年の速見郡村誌立石村の条には、堀田湯、湯質硫気ヲ混ス、皮癬、廠毒、悪疾、痒瘡等ニ効験アリ、浴場壱ケ所逆旅拾戸、旅客壱歳大凡弐千人とあり、同温泉場には当時すでに年問約二、○○○人の宿泊客があったもようである。これは 堀田温泉の医療効果が大きかっただけでなく、この地域が別府-由布院(現湯布院)を結ぶ交通上の要衝であったこともその一因である。その後、この浴場はやや南西に移され堀田西温泉と呼ばれた。 明治三十九年(一九一六)桂隣庵主人柴石は、「温泉煙り、蓮香高し別天地」と詠んだ。 (堀田西温泉) 堀田西温泉(市営)大字南立石字堀田五九三にある。古くは堀田温泉と呼んだ。堀田東温泉ができてから堀田西温泉と呼ぶようになった。(明治初期以前は堀田の湯と呼ぶ温泉であった(堀田温泉の項参照)。同温泉場は、旧浴場が現在地に移された明治中期以後急速に温泉場として整備された。 明治三十年代には、浴場の東方に浜屋・金田屋・萬屋などを中心に旅宿街が形造られ、西方には蒸湯、南側の断崖には五百羅漢が祀られ湯治客で賑わった。 大正期になると、当時管理権のあった石垣村は、立石地区にある村営浴場の整備に積極的になる。大正十一年の石垣村議案書「南立石区費継続年期支出方法」を見ると、一金四千八百九拾九円 南立石区費中温泉営膳費、 内訳 金八百九拾七円 大正十一年度支出額 金弐千五百円 大正十二年度支出額 金壱千五百弐円 大正十三年度支出額 (中略) 石垣村長 大正十一年十一月十五日議決 南栄太郎 とある。もちろんこれは観海寺温泉、堀田温泉営繕のために計上されたものだった。 ついで、大正十二年(一九二三)になると南立石区温泉使用料徴収規程が制定され、同年四月一日から実施に移された。同規程には、石垣村南立石区温泉使用料徴収規程 第一条 本村之外ノ市町村内ニ住所ヲ有シ本村大字南立石区設備ノ温泉ヲ使用セントスルモノハ左ノ区別ニヨリ使用料ヲ徴収ス、一、大字南立石字観海寺一浴ニ付四銭以上十五銭以下、一、同堀田同 四銭以上十五銭以下、一、拾歳以上十四歳未満ノ者ハ前項使用料の半額ヲ徴収シ拾歳未満ノ者ハ之ヲ徴収セズ、 第二条。毎年徴収スベキ使用料額ハ区会ノ決議ニヨリ前条ニ定メタル範囲内ニ於て之ヲ定ム、 第三条 本区ハ宿屋業者ニ対シ其宿泊人ヨリ使用料ヲ徴収スルコトヲ委托ス、 第四条 前条ノ宿屋業者ニ対シ徴収手数量ヲ支払フベシ、 第五条 前条ノ手数料支払ヒニ関シテハ毎年度区会議決額ヲ前半期ヨリ九月三十日、後半期分ヲ翌年三月三十一日ノ二回ニ分チ支払フモノトス、 第六条 宿屋業者ハ其徴収シタル使用料ノ前月分ヲ翌月三日迄ニ石垣村収入費ニ払込ムベシ、 第七条 温泉使用料ハ一ケ年乃至二ケ年間ヲ通シ競争入札ニ付スルコトアルベシ、但シ管理者又ハ本区ニ於テ必要ト認メタルトキハ指名競争入札又ハ随意契約ニ付スルコトヲ得、 第八条 前条ニ依ル落札者ハ契約期問内ブ使用料ハ年度開始一ケ月以内ニ一時ニ石垣村収入役ニ前納スヘシ、若シ之ヲ怠リタルトキハ区会ノ議決ヲ経テ解約ス、 第九条 前条ニヨリ入札ニ付シタル場合ハ宿屋業者ハ其ノ徴収シタル使用料ヲ第六条ニ定メタル期日迄ニ落札契約者ニ引渡スヘシ、 第十条 本使用料入札規定ハ区会ノ議決ヲ経テ之ヲ定ム、 附則 第十一条 本規定ハ大正十二年四月一日ヨリ之ヲ施行ス、 とある。 堀田温泉のうた 不老暢人 (薬師寺知朧) 靡く湯もやの とろとろ坂を 登りや湯の里 鶏が鳴く 泣くも笑ふも 情けの綾よ 惚れた同志で 堀田迄 (別府詩歌集)

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