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  港南砂湯

 

 

 

● 歴 史

楠町(元別府村南町下の海岸)にあった砂場。 江戸時代すでに浴用に供されていた砂湯(港北砂湯の条参照)。 明治三年(一八七〇)には、南豊別府の新みなとは明治三庚午の年築きて函○の港と名つく、ミなとの左右干潟に出湯あり。 海内稀なる潮温泉にて、もろもろのやまひを治す。湊のうち東西一五〇間、南北一〇〇間美南との口潮の干つまり、深さ四ひろなり、とある。 また、『豊後国速見郡村誌』には「潮湯、湯質不詳、疝癩、胃病、脚気、リュウマチ病等ニ効アリ、浴場海浜、砂場数ケ所、里俗砂湯ト稱ス」とある。 この写真は、明治末期(明治四十二年頃)の入浴風景である。 よくみると母子連れの人、傘を持って腹這う男、ほおかむりの青年、海岸に遊ぶ人の群、別府港に入る明治型汽船、灯台など、まことに興味ふかい。 この頃、砂湯は港北・港南・浜脇・亀川などにあったが、港北と港南は町営であった。 この海浜砂湯について鉄道院の生野団六は、「砂湯とは干潮の時しようれいな浜辺、おだやかに寄する波打際に天幕を張りて日除となし、思ひ々々に砂を掘れば熱湯が沸々と湧き出る。そこに体を埋めて患部を温める。 前面は清浄無垢の海水で、鶴見の山脈、四極の秀峯とつらなり、緑滴る若葉は鏡の様な海と調和して一しおきぶんを愉快にする」(大正四年『通俗別府温泉案内』)と別府の砂湯を批評した。 大正初期、町営砂湯について町は管理料として一浴金三銭、六歳以上一〇歳未満金二銭、入浴時問は、一浴三〇分以内。設備は町で実施。必要ある場合は経営を請負人に渡すことがあったという(拙著『ふるさと写真集・別府」)この砂湯は、昭和初期まであったが、今は見られない。 なお、矢田梅洞はこの砂湯について、「砂温泉にも、入るや汐干の戻りがけ」と詠んだ。昭和十年頃まで使用されていたという。


場 所