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  澁の湯温泉

 

 

 

● 歴 史

有名湯・生き湯・上澁の湯とも言う。鉄輪上(元南鉄輪村)永福寺東側にある。 古くから開かれていた浴場で、明治初期頃に刊行された『豊後国速見郡村誌』鉄輪村温泉の条には、渋ノ湯、湯質硫気ヲ混ス、里俗ニ稱スル地獄ニ海地獄ノ流レヲ引キ湯トナシ浴ス。其味硫礬甚シク、呑ムヘカラス。其色灰色ニシテ疝癪等ニ功験アリ。浴場壱ケ所。 とあるから、古くは、海地獄から流下する温湯を引き、村人や疝癪を病む者などが入浴していたことがわかる。明治十四年の大分県統計表には年間浴客約七、五〇〇とある。盛んに利用されていたわけである。 また、明治二十九年(一八九六)佐藤藏太郎の『南豊温泉記』には、澁の湯、本泉は塩類性硫黄泉なり、其性状は白濁色不透明にして盛んに硫化水素の臭気を放つものなり。医治効用は田の湯に同じ、(下略)とあり、明治三十五年(一九〇二)野尻従吉の『豊後温泉誌』には、渋の湯、一名生き湯(寒暖晴雨に因て泉色を変す、故に土人此名を稱す)浴場二槽あり。 又一丁餘にして熱の湯あり。(中略)此地は頗る温泉の気脈多く、路傍及人家接近の処、往々硫気を噴出す。毎戸檐前に小穴を穿ち釜甑を安し飯を炊き茶を煮る。皆其蒸気力を借れり。浴客皆其奇に驚かざるはなし。土人竃を此に築き、或は竹筧を架して之を引き、以下薪炭の用に換ふ。浴客一ケ年数万人餘に及ぶといふ。腫物悪瘡の類は初め此湯に浴し病根を発表せしめ後明礬の湯に入浴すれば根治するといふ。 泉質澁の湯は、塩類性硫黄泉、温度四十六度五分、微黄色不透明として味酸かんなり。 盛んに硫化水素の臭気を放つ。(下略)と記され、明治三十九年(一九〇六)『豊後温泉之図』には「澁湯、医治効用は、別府田の湯と同じ」と記されている。 また、明治四十三年(一九一〇)『南豊温泉記』には「澁の湯、是れ一遍上人が、建治二年の末に開造せし温泉なり。平常は青濁色なるもの雨雪の前日には、必ず淡濁黒色と変ず、又春秋彼岸の中日、及び一遍上人自作の木像(温泉山に安置す)を入浴せしむ當日は、白渇色に化す、故に之を有命湯とも稱す、而して泉質は、白濁不透明の塩類泉、 硫黄泉にして盛んに硫化水素の臭気を放つ」とあり、明治四十二年(一九〇九)『別府温泉誌』には、澁の湯は泉源谿間より来るものとして、その浴場は、明治八年の築造に係り、石を以て外部を囲み湯槽を設けて温泉を湛へしめたれば云々。と、更に大正十四年(一九二五)稗田武士著『別府温泉』には、澁の湯、佳麗なる新築浴場、泉質、塩類性硫黄泉、温度泉原摂氏八十九度、入浴料無料公開。とある。文中に「新築浴場」とあるから、大正中期以後、新築されたものであろう。 昭和十年(一九三五)朝日村と別府市は合併し、同十一年四月二日蒸風呂・下澁ノ湯・上熱ノ湯などとともに市営温泉となった。 同年の別府市市設温泉規程には、「第一條、市内温泉ニシテ市費ヲ以テ菅理維持スヘキモノ左ノ通リ定ム」として、上澁ノ湯・下澁ノ湯の名があげられている。 これまで、澁の湯と呼ばれていたものを上澁の湯、元湯とよばれていたものを下澁の湯と呼ぶようになっていたことがわかる。 泉源は字風呂本二一七にあり、泉質は含ホー酸食塩泉である(九大温研調べ)。(後藤佐吉氏の教示による)。

場 所