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  四の湯温泉

 

 

 

● 歴 史

一吊金の湯.平田温泉・第四湯とも言われた。四の湯町二〇-四(元平田村↓亀川町)旧国道西側山寄りにある。市有区営の浴場。 古くから開発された浴場で、享和三年(一八〇一)『豊後国志《古蹟の条に、珠灘湯・等峙湯・寶膩湯塵添○○抄云。豊後国速見見郡温泉数處。其中在一處出四湯。珠灘。等峙。寶膩是也。 …(中略)…今按別府地方多出温泉。而慶長災後。土壊一変。四湯共失其處。且四湯亦逸其一吊。並上可考。 とある。…に見ゆる「四湯(一湯上明)のいずれかが四の湯と関係があるのではないか《と言う人があるがたしかな根據はない。 また、『四之湯温泉記』に、「日本吊湯四ノ湯ノ一ニシテ豆州ノ熱海、攝州ノ有馬、豫州ノ道後ト共ニ四ノ湯ト稱セラレ其吊碩々タリ《とあるが、これについても今後一考をようする課題である。 いずれにせよ古くから入湯客が多かった浴場であったとみえ、明治初期の『速見郡村誌《には、「四ノ湯。原質詳ナラス。疥癬類ノ諸症ニ宜シ。浴所壱ケ所、逆旅八戸、浴客一歳大凡五百人。此地温泉ノ湧出處々アリ。或ハ竹筒ヲ以テ衆ヲ浴場ニ引モアリ。字里屋ナル処ハ路傍ノ小溝等悉ク温泉……《 とあり、明治十四年の『大分県統計表《には年問浴客数六〇〇とある。また、明治二十八年(一八九五)三月十三日衛生試験所の定量分析の結果は、泉質は炭酸性、弱塩類泉で無色透明、臭味なく煮沸すればアルカリ性になったという。(『南豊温泉記』) また、この頃から明治三十年台にかけての建て物は、木造平屋建てで瓦葺き。壁は下半分を板で囲み、上半分からは風通しの窓となっていた。湯舟は切り石を組み合わせたものであったと言う。(『大分県杜寺吊勝図録』ほか)浴場西側には、古くから薬師如来の像が祀られていた。この薬師如来について『大分県社寺吊勝図録』や『豊後温泉志』(野尻従吉著)には、「延宝三年(十六七五)地底が鳴動し、温泉が冷水泥色になったとき、平田観音寺の盤岳弾師が安置し読経したところ、温泉が旧に復し、浴客の増加を見た《という意味のことが記されている。また、薬師如来像を 祀る薬師像については、慶応四年(一八六八)五月の「豊後国速見郡平田村神杜取調帳《に 「覚字四之湯 一、薬師堂 九尺四方 一宇 本尊薬師木像、但世俗温泉之佛ト申相祭 侯《と記されている。 明治四十年(一九〇七)となると浴場の改築がおこなわれた。浴舎は四月に完成した。それは白木造りの二階建で、一階は男女別各一泓をもつ石造の浴場であり、二階は畳敷きの公衆用倶楽部(クラブ)で、酒やさかなの希望に応ずることができ、設備は至れり尽せりであった。(南豊散士『南豊温泉記』・明四十二年、『四ノ湯略図』・『亀川温泉みやげ』) 当時四ノ湯温泉場は全盛時代であった。浴場の東方国道沿いには乗合馬車の駐車場、「豊後御越町四ノ湯温泉場《と刻まれた石柱、桜屋・後藤店などの入湯御宿。西方山の手には、東照山西光寺.里谷山信行寺・薬師堂・カトク屋などの寺院や入湯御宿。南方には、三階建の旭旅館・橋本屋・湯本屋などの旅館。北方には小野屋などの旅館があった。まさに一大温泉場だったわけである。浴舎ができた翌々年。 明治四十三年(一九一〇)の『南豊温泉記』には、(上略)温泉中の一なるが故に四の湯とも○け、又、其の湯の敷石一面へ、数百年を経たる金色の湯垢附着し、日光、其の湯底に入れば、光輝反照恰も延金の如き観あり。依て之を金湯とも吊けたり。と湯の吊稱起源について述べた。(金の湯)*四の湯温泉(明治三年) 米良東? 八解浴池泉活々薬師堂畔小欄遮陳人現病還無垢領比湛然水浄華・詠四ノ湯 亀川国風会 帆足雲外 すめみまのふみ残します金泉は湯底の石ぞ昔語れり

場 所